尾崎裕哉:待望のCDデビュー作と父・尾崎豊への思いを語る

CDデビュー作となる4曲入りシングル「LET FREEDOM RING」をリリースした尾崎裕哉さん
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CDデビュー作となる4曲入りシングル「LET FREEDOM RING」をリリースした尾崎裕哉さん

 尾崎豊さん(享年26)を父に持つシンガー・ソングライターの尾崎裕哉さん(27)が、CDデビュー作となる4曲入りシングル「LET FREEDOM RING」を22日にリリースした。「自由の鐘を鳴らせ」という意味のタイトルは、自身が敬愛する公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)がスピーチで用いた言葉であり、「今作で自分の存在、思い、楽曲を世の中に解放していく」という思いが込められている。音楽的にも、アコースティック、バンドサウンド、ブルーステイスト、ソウルといった自由度の高い多彩な楽曲が並ぶデビューCDの制作秘話や父・尾崎豊さんへの思いなどについて聞いた。

ウナギノボリ

 ◇幼いころから尾崎豊のモノマネをしていた

 ――父の尾崎豊さんが亡くなったのが2歳のころで当時の記憶はないそうですが、ミュージシャン尾崎豊の原体験は?

 2歳ぐらいから父親のモノマネをしていたらしいです。ライブのビデオはよく見ていましたね。あと音源とか写真集とか。父親なんだな、カッコいいなって思いながら見てました。(初めて触れた音楽という意味で)「童謡より先に尾崎豊」かもしれないですね。

 ――5歳ぐらいからミュージシャンになる夢を抱き、高校卒業と同時にミュージシャンになると宣言をして20歳ごろから本格的に作曲を始めたということですが、一方で、高校時代に音楽ビジネスを通じた社会貢献に興味を持ち、大学では新しいコンサートビジネスの研究などをされていたそうですね。

 その時は、カラオケで1曲歌うごとに1円寄付されて……みたいな仕組みでチャリティーコンサートができないかっていうことを考えたり。音楽で、社会的にもっとたくさんの人をいいことに動かしていけないか、というようなことをテーマとしてやっていきたいなと思ったんです。もともとミュージシャンになるつもりでそういうことを研究していました。

 ――偉大なミュージシャンである父と同じ道を選ぶことを決断するまでに葛藤はなかったのでしょうか。

 同じ道を選ぶということには葛藤はないですね。むしろ父親がミュージシャンだから自分もなりたいと思ったし、彼は憧れだったので、僕もそういうふうになりたいなと思った、ということだと思います。(作曲においても)一つのベンチマーク(指標)になってますね。

 ◇父の背中を追いかけ苦悩した時も

 ――先行デジタルシングルにもなった今作の3曲目「始まりの街」は、お母さんへの思いをつづった曲だそうですが、その具体的な背景は? また、15歳までの10年間を過ごした米国ボストンでの、お母さんとの思い出はありますか。

 母親に「パパがいなくて寂しい思いをさせてごめんね」って言われたことがあって、それに対するアンサーソングというか、「そんなことはないよ。僕は幸せだったんだから気にしないでね」というような曲。僕がコネチカット州の学校に行っていた時があって、片道5時間ぐらいドライブするんですけど、往復で10時間、普通に(東京から宮城県の)仙台まで行けるくらいの距離の道を、毎週のように送り迎えしてくれていた、その道中とか道のイメージはありますね。

 ――2曲目「27」には、ご自身の年齢や、ジミ・ヘンドリックスなど27歳で他界した有名ミュージシャンを指す「27クラブ」の意味合いもあるそうですが、実際に尾崎豊さんが亡くなった26歳の年齢を超えて今、感じることは?

 僕は26歳でようやくスタートラインに立てたのに、彼は18歳から音楽活動をして人に影響を与えられた……。そしてたくさんの素晴らしい作品を残せたっていうその若さと力強さとみずみずしさ、26年間であれだけのことをギュッと表現できたっていうのはすごいな、と。

 ――「27」の歌詞には「遠い背中を追っかけていた……」「比べたって……答えは見つからない」といったフレーズもありますね。父・尾崎豊さんと比べられて悩んだことがあったのでしょうか。

 基本的に、人から比べられたり、人の意見っていうのは、その人の頭の中でのことだから僕は分からないし、影響はほとんどなくて、あくまでも自分の中で比べている、ということなんです。彼のような作品を作りたい、彼のような存在になりたいって思っていたから追っかけていた……。でも、比べるだけじゃ自分のオリジナリティーは見つからない、ということですよね。書道と同じで、まずは同じようにやるんですよ。でも、同じようにはならなくて、はみ出たその隙間(すきま)が自分らしさだったりする。だから比べることは必要なんだけど、自分のやり方っていうのを身に付けるためには、いろんな挑戦をしてトライ&エラーしていくことが大事で、それはもはや比べるっていうことではない、というのが自己成長論としてはあります。

 ――1曲目「サムデイ・スマイル」も、自分の中に抱えるつらさや悲しみを思わせるような歌詞ですね。

 そのつらさの大半は、僕が自己表現をできなかったことに由来していて、曲が全く書けない時期が5年ぐらい続いていたんですね。あとは、父親がいないとか、そういう家庭的なことも多少は含まれているんですけど、一番は、今、思っていることをどう言葉にしていいか分からないっていうことへの“もがき”がすごくて、何度も挫折したし、あきらめた時もあるし……。そのもがきや苦しんできたことが今に生きていて、「サムデイ・スマイル」や「27」に反映されているというか。その苦しさの中で感じたのは、簡単に言うと「生きてりゃ、何とかなる。あきらめなければ、チャンスは訪れる」ということで、ネガティブさから生まれたポジティブな一面が「サムデイ・スマイル」には生きているかなって。

 ――4曲目「Stay by my Side」に関してはどうですか。

 恋愛関係の中で「人はなんで別れて傷ついても、また人を愛してしまったり、愛したくなるんだろう」「なんで愛されたい人間と愛したい人間がいるんだろう」って思ったことがあって、その時に「それをあなたと一緒に見つけていきたい」というようなラブソングを作りたいなと思って。恋愛の一対一の関係の中の愛について語っている曲です。

 ――今作でついにCDデビューをしたわけですが、ご自身がなりたいアーティスト像やオフィシャルサイトでコメントされている「父が成し得なかったことを果たしたい」という思いとは?

 例えば1作目はアコースティック、2作目はバンド、その次はエレクトロとか、スタイルが変わり続けるアーティストでいたい。常に方向性が見えない、でもいい意味でアーティストとしての進化が見えるような。あと(父が成し得ず、果たしたいこと)はやっぱり、音楽を通じた社会貢献ですね。彼と僕は結構、考えていることが似ていると思うから、彼がたぶん30歳ぐらいの時には同じことを言ったんだろうなと思います。

 <プロフィル>

 1989年生まれ、東京都出身。2歳の時に父・尾崎豊さんが死去。5歳で母とともに米国に渡り、中学3年生で帰国するまでの約10年間をボストンで生活。14歳ごろからは洋楽、特にジョン・メイヤーなどのブルースに傾倒。高校卒業後に進学した慶應義塾大学では、ビジネスを通じた社会貢献や社会事業の研究を行った。2016年9月には初のデジタルシングル「始まりの街」をリリース。尾崎さんが初めてハマッたポップカルチャーは、ゲーム。「5歳の時に初めてゲームボーイと『ポケットモンスター 赤』をもらって、ゲームは超ハマりましたね。よく友達に『ゲームキャラっぽいよね』『アニメに出てきそうだよね』とか言われます(笑い)」と話した。また、尾崎豊さんの歌で好きな曲は「僕が僕であるために」。「自分の人生って、やっぱり自分じゃないと変えていけない。『僕が僕であるために』というの(歌詞)は、自分は自分だから、自分にしかできないことをやっていくんだ、というふうにとらえていました」と明かした。

 (インタビュー・文・撮影:水白京)

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